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zoom RSS 岡村理論の主体性の論理

<<   作成日時 : 2008/01/27 21:10   >>

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 現場で働くソーシャルワーカーとして大切にしている岡村先生の『社会福祉原論』は、職場の机に置いて時々あけては読んでいる本である。
 実践する立場からすると、岡村先生に忘れてはいけないことを忘れないようにしっかり見張ってもらっているという感じだろうか。
 岡村理論の中でも理解するのが難しい概念が「主体性の論理」だろう。ずっと難しいと思っていたが、ちょっとしたきっかけで、こう考えると分かりやすいかもしれない、ものすごく間違った解釈ではないのではないか、というポイントを見つけた。
 それはこのようなものである。主体性という言葉を、違うが遠くない言葉に置き換えてみるというものである。
 日本国憲法に「国民主権」という考え方がある。主権は国民の一人一人にあるということである。一人一人が生活の主体者であるという理解は間違いではないだろう。
 それに対して第二次世界大戦前は1889年の大日本帝国憲法以来、「天皇主権」である。つまり国民一人一人が主体になるのではなく、国家または天皇が主体になると考えられる。たとえば戦争中は、「お国のために戦って来い」といわれ特攻機でなくなった方も多いし、「非国民」という言い方や「一億玉砕」などど言う言い方があったと聞く。
 一人一人の生活ではなく、国家が豊かになるということが優先された生活だったと思う。
 まさに自分の生き死にと、生活する権利が自分の手の中にあるのではなく、国家や制度に握られていたのである。
 生きる権利は、実際には生活する権利であり、自分らしく自分が生きる、生活の主体者であるということではないだろうか。
 岡村理論の「主体性の論理」は生活の主体者として、自分らしく生きる権利を守れと言っているように思う。

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内 容 ニックネーム/日時
感心しました。人は可能性として生活の主体です。それを現実の社会で実現する方途、条件に恵まれないときがあります。あるいはそれが「あからさまに」必要にされないまま、幸せに暮らしていることもあります。
ブラクティショナー、人が主体性を現している姿を、その条件と共に分析的に記述することが任務だと思います。
coping-with
2010/11/20 08:19

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